MADを加速させるニコニコ動画(仮

今まで散々書いてきたけど懲りずにまたニコニコMADネタで書きます。楽しいので。
ほぼ毎日ニコニコ動画をチェックしているんだけれども確実に開始当初の時期に比べてMADが増えてきている。以前にも言ったけれど、多くの人が気になる動画は既に消費されていてMADを作るしかない状況にあるんじゃないかと思う。それに涼宮ハルヒの憂鬱のMADなら涼宮ハルヒの憂鬱の本編を見た人は話が既に分かっているから、初めてのアニメにとっつくよりも気楽で楽しく見れる。

【MAD】 Lucky Star Rhyme (らき☆すた+きしめん) というらき☆すたのキャラを「Nursery Rhyme」というエロゲーのプロモムービー押し込んだモノ。何も知らない人に見せたらこういうモノが初めて有るんじゃないかと思わせてしまうほどの出来の良さである。2つの既に知っている事柄が違和感なく組み合わさるという事にこのMADを含めたPV系MADの面白さがある。

多くの人がニコニコ動画を見る時は毎日一番熱い動画が上がってくるランキングを見るはずだ。このMADのネタとして使われたNursery Rhymeのプロモムービーも以前「きしめん〜♪」という空耳の面白さによって、ランキング上位に食い込んだ動画である。そして言うまでもなく、らき☆すた関連の動画は連日ランキング上位に上がってきている。

ニコニコ動画ランキングを定期的に見ている人はその動画を既に知っている場合が多い。既に元ネタを知っているということはMADを見る上で元ネタの2つの事柄とMADの違いを楽しむために重要になってくる。そして、ランキング上位の映像でMADを作れば既に皆が知っていることだしコメントが伸びるのではないか?自分が作った動画に反応があるんじゃないか?と言うMAD製作者の思惑によってMADの製作が加速され、ニコニコ動画内でより面白くて需要のあるMADが多く作られるのではないかと思う。

Lucky Star RhymeのようなPV系MADの一方で、らき☆すた☆ハルヒのようなアニメ本編を改変したMADがある。僕自身はPV系MADよりも断然こちらの方が好きだ。PV系MADは2つの事柄が違和感なくというのがオモシロイし感動できる所なのであるが、本編MADはこの違和感をわざと作る事こそ面白さがあるんじゃないかと感じる。

いつもMADを見ると良く音楽におけるサンプリングに似ているなと思う。
DJカルチャーポップカルチャーの思想史という本にサンプリングについてそれをデータベースを耳でハッキングする事でありこれは脱構築の美的実践と書いてある

脱構築ってのは、テキストや文化現象を選び、それらの真のメッセージを社会的・政治的・性的文脈に置き換えるプログラムのことだ。実際には、それらは芸術活動だ。つまり事を組織だてて壊してゆき、人々の期待を潰しにかかるプロセスなんだ。
DJカルチャーポップカルチャーの思想史120ページ11行目

サンプリングと同じように人々が期待しているアニメ本編の決まりきったテキストであり展開をハッキングしていく楽しさそれがアニメ本編MADには見られるような気がする。だが、サンプリングとアニメ本編MADが違う事はアニメが余りにも映像や物語が音声が混ざり合い複雑するぎるので、音楽のように肉体的にサンプリングしたのでは意味が分からなくなってしまう事が良くある。これを回避するためには物語を器用に構築するか(これはそうとう難しい)MADの元ネタを知らなければ100%は楽しめない。

けれどもニコニコ動画のMADは徐々に質が上がっていてこれを回避できるようになっているかもしれない。例えば2日前に投稿された【MAD】リリカルなのはStrikerS 「ベルカ式なのはさん」というMADがある。僕は 魔法少女リリカルなのはStrikerS を見たことがないが楽しめてしまう。不思議な感じだ。

2007年05月17日に投稿されてランキング上位になったらき☆すた 妄想MAD(R-12指定)は完全にらき☆すたの映像だけを使った性的文脈を含む?アニメ本編MADであるが、アニメ本編よりも個人的には面白かったりする。らき☆すたは以前にも言ったように本編でもオチがわからないようなまったりとしたアニメなので本編MADには最適である。そして、本編中にアイキャッチを頻繁に入れる方式は本編を短い間隔に区切るのでそれによってアニメMADも短くすれば良いので比較的製作が楽だと思う。

3日前に投稿されたらき☆すた☆ハルヒもおもしろい。2つのアニメが違和感を持ちつつも面白く繋がる。らき☆すたアイキャッチ効果と涼宮ハルヒ泉こなたの声優が平野綾で同じという所が大きいと思う。

最終的に

アニメMADが台頭しているという事実はサンプリングの考え方だけなく日本のオタクカルチャーとの関係性は回避できないのではないかと言う思いがここまで書きながら大きくなってきた。「動物化するポストモダン/ 東浩紀」に書いてある様にオタクという大きな流れの中のデータベース型消費が過剰に進んだ末のシミュラークルの形なのかもしれない。
でも、このような考え方よりも今のニコニコ動画に上がっているMADはそれを超えた所にあるんじゃないか。つまり、動物化するポストモダンの中ではデータベースとシミュラークルが直接繋がっていると書いてあったが、ニコニコ動画のMADはデータベースとシミュラークルの間にニコニコ動画というある種のもう一つのデータベース的な物(良いシミュラークルと悪いシミュラークルを選別排除する装置)を通した結果出て来た物じゃないのか…。この説明が一番しっくりくる。

単に本編MADが面白すぎるぞ!!!ということ詳しく書こうとしてきたら良く分からない方向に進んでしまった。考えがまとまってないどっちらけな感じになってしまいましたが中途半端な物でも晒す主義なので載せておきます。