読む音楽と参考文献


テクノウチ氏による独断と偏見まみれの自費出版文庫本、全333ページ超の読む音楽出来ちゃったらしいです。本なのに同人音楽イベントM3で発売らしいです。同じ日の文学フリマにも出した方が良いのに。
これは冷静に考えると無謀な企画ですね。出版不況な時期に音楽同人業界で文庫本を出すってのが相当クレイジーで、それに加えて「読む音楽」と音楽を全てに収めるタイトルの書き方をしているのも凄い。それに何より僕に文章を書かせちゃったのが狂ってる。
ナードコア - J-CORE 試論の試論」というタイトルで16ページぐらい書かせてもらいました。はじめはDJ、インターネット、ニコニコの話とナードコアの話両方を書こうと意気込んでいたのですが、ちゃんと文字を書く事への発狂に次ぐ発狂の末ナードコア話しか書けなかった。タイトル一覧を見ると他の人も「J-CORE」について書いてるので、ああニッチ産業なのに被ってるじゃんこんな話書くよりは他の話書いておいたほうが良かったと後悔。
書いた中身はナードコアとJ-COREの違いとか、シャープネルについて、動ポモとクラブミュージック、場とインタフェースの問題等などを1本の筋にまとめたもの。大体がここでの気合入れて書いたエントリーをまとめてもっと奇抜にさせたような内容です。読んで正しいとか正しくないとかは色々あるのですが、今までされていなかった話をしたと思うので議論のきっかけになればいいんじゃないですかね。

参考音楽本紹介

「読む音楽」繋がりで個人的に面白いと思ったそして、今回の読む音楽に書いた事に関連する音楽についての本の紹介でもします。

ウルフ・ポーシャルト / DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史

95年にドイツ生まれのウルフ・ポーシャルトが書いたDJカルチャーについての本。95年というクラブミュージック全盛の時代(と勝手に妄想ししている)と共にまだ反抗の精神があった時代に書かれた本の為にかなり楽観的でしかも恥ずかしい位に熱い。それが2004年に訳されて出版された。この9年間の現状の差はかなり大きい気がするが、僕は訳の発売とほぼ同時期に購入してこの本に洗脳されてしまい今だ90年代のクラブミュージックの精神を引きずっている気がする。クラフトワーク、ビスティーボーイズ、チャック・Dなど様々なアーティストと思想家の引用をちりばめながらも、小難しい理論書にはならず気さくな口調で好感が持てる。ふと何度も読み返してしまう。

マイクDのようなビースティーボーイズにとって、未来の音楽ってのは。一六才の連中が「コンピューターをロックさせて」作った騒音なんだ。「音楽の未来ってのは、サンプリングじゃない。言ってみれば。俺たちが使ってるテクノロジーを、ピックアップしに来るキズズみたいなものさ。ヤツらは、俺たちが思いもつかなかったことをやるんだ。これは避けようがない。そしてこれが音楽になってゆくんだ。」
DJカルチャー―ポップカルチャーの思想史 124ページ

椹木 野衣 / 増補シミュレーショニズム

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

91年に書かれた『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』の文庫版。シミュレーション・アートとハウス・ミュージックを〈サンプリング・カットアップ・リミックス〉というキーワードで横断的に論じている。この本も熱いです。アート論の方はあまり勉強してないので分からないのですが、「ウェアハウス」からの歴史を踏まえながらのハウスミュージック論がかなり面白い。ロックミュージックとの比較やコラージュとは違うカットアップ手法などなど。快楽のための消費と減裂の章で書かれているハウスミュージックはもはや「音楽」ではなく、身体の快楽を引き起こす「薬物」に近いという考えは「読む音楽」で書いた事のベースにもなっている。
ニコニコ動画によるMADの流行やパクリ問題などサンプリング・カットアップ・リミックスといった概念が再び見直される機会が多い今だからこそ再び読むと面白い1冊。91年なのでまったくインターネットの話は出てこないが、もしどこかでこの辺りの概念とどう絡むのかを著者が書いているのであれば非常に気になる。

たしかにロックは最低のコンディションに陥っていた。しかし、ハウスミュージックはこのコンディションを打破するものとして現れたわけではない。ハウスミュージックはそれとは逆にこのコンディションを引き受けることによってのみ可能となった。したがって、ハウスミュージックを一概に「音楽的」に体験しようとする態度は根本的に間違っている。それは低質だが莫大なる「量」といて、観賞されるのではなく「観測」されるのであって、この量こそがハウスミュージックにおよそ前例のない強度を与えることになったのである。
増補シミュレーショニズム P291 ロック・ミュージックの「極北」●

増田 聡・谷口 文和 / 音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ

音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ

音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ

レコードの誕生からの歴史を踏まえてCCCDやMP3、IPOD著作権などコンピューター以降の音楽の問題点や、音楽とは何か、音楽作品とは何かについて書いてある非常に幅の広い内容。音楽がどれほどテクノロジーと結びついてきたのか、そしてそれによって変貌していったのかがを分かりやすく説明している。上の2つの本と違ってそれほど熱くはないが、2005年に書かれた事もあって現在の身近な音楽に関わる事柄を扱っているので取っ付き安い。
また多くのページを割いて「作る」と「聴く」という枠組みではとらえられないDJという行為についても、ラジオDJからの歴史を踏まえながら書いていて興味深い。「使える」レコードを生み出す、ダンスフロアという場の関係性の話は「読む音楽」に書いた事にも少し反映されている。

われわれの一生よりも長い時間の流れと、自分には関係のないつもりでいるテクノロジーの使い方に目を向ける。それらの背後に共通している大きな流れを、お互いの関連性を見つけていく中から浮かび上がらせる。この手段を踏むことでようやく、「われわれにとって音楽とは何か」という難問にアプローチすることができる。そこから明らかになるのは、われわれが音楽を扱ううえで重要な枠組みとなっている「音楽作品」という概念が、実は揺らぎを伴ったものであるということと、そしてその「音楽作品」を基準に運用される著作権のシステムもまた、同様に難しい状況を迎えているということだ。
音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ P6-7 まえがき

そういえばこの本の著者でもある増田 聡さんが2008年4月に創刊された思想地図で「データベース、パクリ、初音ミク」という文章を載せていた。まだ内容はブログの要約でしかみてないのだけれど、東浩紀のデータベース論とクラブミュージックを絡めて書いているようで、僕もそんな様な事を書いたので被ってしまっているのではないかとガクブルです。買わないとなぁ。普通の雑誌で同じような事が書かれる事が分かっていたなら他のことを書いてたのに!

矢向 正人 / 音楽と美の言語ゲーム

音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ

音楽と美の言語ゲーム―ヴィトゲンシュタインから音楽の一般理論へ

言語ゲーム!!!言語ゲーム!!!ヴィトゲンシュタイン言語ゲームの理論を使い、音楽の一般的な理論モデルを構築するという壮大な試み。言語ゲーム(「伝統的文化的に決められた生活様式というルール」)という日常にそった概念を音楽と組み合わせて使おうとすること、そして、西洋音楽だけをモデルに考えるのではなく、美という概念から遠いと考えられがちな非西洋音楽、またポップミュージック、クラブミュージックまでを含めた音楽にも応用できる論理である事が非常に面白い。音楽理論といういうと小難しく考えがちだが、ここまで抽象的にして一気に具体的に引き戻してくれると興味が沸く。
そもそも音楽における曖昧な美という概念をブラックボックスに放り込んで、それを巡る「是認の身振り」つまり評価や評価の身振り(ダンス、拍手、雄叫び)による言語ゲームの一環として音楽を考える。後半のハンスリックの『音楽美論』の再検討やリズムの構造、協和と不協和の美のゲームは専門的な話で難しい。だけれど、普段音楽を聴いて感じている問題意識(リズムがあるものを何故良いと感じるか?など)と重なる点があるので読み進めたくなる。

いずれにせよ、二十一世紀の今日的な状況において、音楽のゲームはそもそも同時的・多重的に営まれているものであって、そこには諸所の価値が錯綜していると言うことができる。それらをどのように、記述し説明するかは、音楽という言語ゲームの捉え方、運用のしかた次第である。今日の音楽をめぐるゲームのこうした同時的・多重的な状況を見定め、そこで複合的に作り出されている価値生成の仕組みを可視化させていく試みが、本書の続編においてなされるべきであると考える。
音楽と美の言語ゲーム P385 まとめと今後の展望

毛利 嘉孝 / ポピュラー音楽と資本主義

ポピュラー音楽と資本主義

ポピュラー音楽と資本主義

打って変わって、こちらはポピュラー音楽の話。マルクスアドルノ等を取り上げポピュラー音楽と資本主義を取り巻く言説を紹介し、ビートルズクラフトワーク、KLFなどの個別のアーティストのポピュラー音楽におけるポップ戦略を説明していく内容。現在の日本でJ-POPの状況を見ていると全く資本主義への対抗とか反抗とかそもそもポピュラー音楽が政治的にもしくは社会的に影響を持つとは思えないのですが、ポピュラー音楽歴史を見ていくと黒人の搾取の問題やパンクなど深く関わってくるという事が良く分かった。
最後章の「ムシカ・プラクティカ-実践する音楽」の中にDJカルチャーとDIYカルチャーの結びが書いてあった。僕はテクニバルとかの影響をモロに受けてしまったので、DJカルチャーって言うのはフリーレイブの中などで、DIYカルチャーと深く結びついてるとは思っているのだが一般的にはそう余り思われてないらしい。また、デジタル時代の音楽実践としてパリス・ヒルトンのCDをコラージュした物を勝手に店に置くいたりするバンクシーとデンジャーマウスのバカバカしい手法が紹介されいて面白くて、これに影響受けてばら撒く為のCDを作ったりしたのでした。
【A面】犬にかぶらせろ!: 『ポピュラー音楽と資本主義』速水 健朗さんの紹介も面白いので一読するといいかも。KLFはヤバイ。

あらためて確認しなければいけないのは、ポピュラー音楽の実践は、実験的なアヴァンギャルドや左翼的な実践とは異なり、資本や権力に対して常に両義的な立場を取るということです。それは対抗的になると同時に反動的になる可能性を同時に秘めています。そして、そのことが、しばしば(自称)ラディカルな政治中心主義者をいらだたせながらも、大衆的なものを動員し、組織化することを可能にしたのでした。この両義性こそが、むしろ本来の政治を獲得する鍵であり、ポピュラー音楽の魅力なのです。
ポピュラー音楽と資本主義 P208