T.A.Z.―一時的自律ゾーンとは何か?

フラフラとフランスのテクニバル関連のサイトを見ていて、T.A.Z.という言葉に遭遇した。
ShockRaverというイタリアのサウンドシステムのサイトに掲げられたfReE PaRtY - fReE PeOpLe - fReE mUzIk - fReE tAz - fReE RaVe - fReE tIbEtという文章。
パーティーが腐敗してきている事への忠告とアンダーグラウンドに留まる事の意義などを書いている。その中にT.A.Z.のコンセプトが引用されてあった。チェコのかなり大きなフリーテクノ集合体サイトにも掲載されていたので、それなりに注目を集めてるのかもしれない。加えて最近になって日本のTEKNIVAL.JPNでもT.A.Z.のコンセプトを掲げる事が書かれていた。G8関連でもT.A.Z.=一時的自律ゾーンとしてのキャンプという記事を目撃したりでT.A.Z.というのは何なんだろうと思っていたので調べてみた。
そしたら、本文の日本語訳が転載されていたのを発見した。なんでも全ての著作権は放棄されていて引用とか転載は自由なのだそう。
Hakim Bey, "T.A.Z. THE TEMPORARY AUTONOMOUS ZONE, ONTOLOGICAL ANARCHY, POETIC TERRORISM"

 「歴史」によれば、「革命」が「永続性」を、あるいは少なくとも持続を達成するのに対し、他方、反乱は「一時的」である。この意味で反乱とは、「通常の」意識や経験の基準とは反対の「至高体験」のようなものだ。祝祭と同様、反乱は毎日発生することはない−−さもなくばそれは「異常」ではなくなってしまうだろう。しかし、そのような強烈な瞬間こそが、生命の全体に形態と意味を与えるのである。
革命を待ち受けること

一時的な「至高体験」としての反乱。革命がその成功にたどり着くまでの一時的な時間の興奮。

TAZは、国家とは直接的に交戦しない反乱のようなものであり、(国土の、時間の、あるいはイマジネーションの)ある領域を解放するゲリラ作戦であり、それから、「国家」がそれを押しつぶすことができる〈前に〉、それはどこか他の場所で/他の時に再び立ち現れるため、自ら消滅するのである。
革命を待ち受けること

一時的な、そして限定された地点で国家権力の目を盗み逃走し自ら消滅する。これがFREEPARTY的な考え方と繋がってくるのは分かる気がする。

 率直に言えば、わたしは既に、自分の感覚を豊かにしてくれる豊富なデータを備えており、それは書籍、映画、TV、劇場、電話、米国郵便、意識の変容した領域等々によるものである。わたしは本当に、それ以上のそのようなデータを得るためにパソコンを必要としているのだろうか? あなたは、わたしに〈秘密の〉情報を提供すると申し出るのか? うん……わたしは多分、気をそそられることだろう−−しかし、わたしが欲しいのは〈すばらしい(マーヴェラスな)〉秘密なのであって、ただの電話帳に載っていない電話番号とか、警官や政治家たちの噂話ではない。
ネットとウェブ

コンピューター的ウェブつまりインターネットには懐疑的な一面もあるようだ。インターネットは平等な情報のネットワークを張る為の最高のツールではあるがそれが目的ではないし、TAZ理論はそれと共に生まれたがそれに限定されるだけではないらしい。
松岡正剛の千夜千冊『T.A.Z.』ハキム・ベイ
松岡正剛の解説と共に読むと歴史的背景が分かりやすい。
セックス、ドラッグ、ダンスミュージック
仲俣暁生による若干批判的な紹介。
僕としてはこの考えにはそこまで批判的にはなれなくて、なるほど、分からないでもないと思っている。1991年に発表されたものとしてはまだこの時代も読み応えがあるというか考えさせられる。というかこの頃の状況を見ると2007年にもなって逆に読み応えが増してきたのではないかとも思えるほどだ。